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Osaka Shalom
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9月10日 信仰が行動に結びついた時に御ことばは働く

まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。(マルコ11:23)

 私たちはこれまで、信仰は目に見えるものではなく、見えないものに基づくことを学んできました。信仰は、私たちが望んでいる事がらを確信させるものです。神の祝福を経験するには、その祝福を信仰によって受けとめていかなければなりません。神から何かを受け取るには、信仰が必要です。しかし、その信仰に行ないが伴わなければ、それは死んでいるのです。
 ヤコブ2:17に、「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」と書いてあります。神を信じる信仰は、待たずに行動を起こします。何を行なうのでしょうか? まず語るのです。私たちが心で信じていることは、声に出して語っていかなければなりません。自分が信じていることを口にすることで、私たちの信仰が解き放たれていくのです。
 イエスは、私たちがイエスに求めたものはすでに与えられていることを信じてほしいと願っておられます。イエスは、私たちがすでに御自分が尊い血潮によって買い取ってくださったものを手にしていることを信じてほしいと願っておられるのです。イエスはすでに、救い、癒し、アブラハムの祝福、さらに罪や病気、この世、肉、悪魔、呪いに対する勝利を私たちのために買い取ってくださいました。イエスはすでに、すべての霊的祝福をもって、私たちを祝福してくださっています(エペソ1:3)。キリストを信じる信仰によって、すべての祝福は私たちのものなのです。
 信仰は、キリスト・イエスによって何が私たちのものであるかを見ています。ですから、信仰によって私たちはそれを受け取り、すべての栄光をイエスに帰すのです。信仰は、「それは私の者です。私は今、それを手にしています!」と言います。信仰は、何かが起こるのを待ったりはしません。信仰は、今、それを受け取るのです。
 私たちが救いの福音を語る時、人々は良き知らせ―私たちが今、さらに永遠に、神との親しい関係に入れるように、イエスがすでにその代価を支払ってくださったこと―を知ります。人々は、イエスを主として、救い主として受け入れるなら、無償で罪が赦されることを知ります。それを聞いて、彼らがその無償の救いの贈り物を受け取りたいと言ってきたら、私たちは彼らに何と言うのでしょうか? 彼らに「何か感情が湧いてくるのを待ってください」と言うのでしょうか? 「祈って、神があなたを救ってくださるかどうか様子を見ましょう」と言うのでしょうか? 「あなたの人生がもう少しきよくなったら、戻って来てください」と言うのでしょうか?
 私たちは彼らに、「神の御ことばだけを信頼してください」と言うのではないでしょうか? 「自分は救いを受けることができるほど良い人間ではないと思う必要はありませんよ。良い人間になるまで待とうと思う必要もありません」、「救いは、あなたの感情やあなた自身の正しさとは全く関係のないことですよ」と言うのではないでしょうか?
 人間が受け取ることができる最大の奇蹟である救いに対して、私たちがこのような姿勢で臨むのであるならば、イエスが私たちのために買い取ってくださった他のすべてのことに関しても、同じような姿勢で臨むべきではないでしょうか? 信仰は、「それは私のものです。私は、今、それを手にしています!」と言うのです。

宣言:キリストにあって、私は救われ、癒され、解放され、祝福されています。

今日の聖書通読箇所:朝・・・Uサムエル4−5章、Tコリント15章
              夜・・・エゼキエル13章、詩篇52−54篇

- 2006-09-08
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