header header
spacer
spacer
spacer
Osaka Shalom
OsakaShalom.com
9月5日 希望がないところには信仰もない

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)

 あなたは今までに、神がしてくださるだろうと待ち望んでいたことで失望したことがありますか? 多くの人が不確かさの中で生きています。人々は、ある事がらが実際に起こるかどうか全くわからない生き方をしています。「何か良い事が起こってくれたらと願っているんだけど・・・」と言うしかないような生き方です。
 御ことばは私たちに、「希望は失望に終わることがありません」と約束しています。希望と失望は共存しません。ですから、もし私たちが失望してしまったと言うなら、私たちは聖書が言っている希望ではなく人間的な希望を心に抱いていたはずです。聖書が教える真の希望が私たちを失望させることはないからです。
 ヘブル11:1には、「信仰は望んでいる事がらを・・・確信させる」と書かれています。私たちに希望がなければ、信仰を用いることはできません。希望とは計画のようなもので、その計画があれば信仰が働いて、それを成し遂げていくのです。希望は、私たちの心の中に、神が御ことばで約束しておられる「いのちのイメージ」を描き出してくれます。悪魔は、自分の嘘に基づいた「絶望のイメージ」を私たちに押し付けてきます。
 私たちの希望は御ことばにのみ基づきます。私たちは聖書で約束されていない事を望むことはできません。明日、自分の銀行口座に100万ドルが入金されていることを望むことはできないのです。非常に楽天的になって、このようなことが本当に起こるように望んだところで、失望するだけです。私たちの望みは、神の御ことばだけにあるのです。
 聖書は、私たちの人生の青写真です。聖書は、製造者である神の取り扱い説明書です。もし私たちがそこに記されている説明を無視したら、私たちの人生は動かなくなります。聖書が私たちに何を約束してくれているかを学ぶならば、私たちは、自分の信仰を用いて、その約束を自分の人生に実現させることができるのです。
 私たちが神が見ておられるように自分を見始めると、私たちの心の中に希望が湧いてきます。私たちは、癒しや経済の解放、家族の救いなどを信じることができるようになります。御ことばを書き出し、それを毎日告白するようにもなります。しかし、もし私たちが自分のうちに癒しや解放を見ることができず、また家族の救いを見ることができなければ、信仰を用いることもできません。
 ご承知のとおり、私たちは思いの中でも「見る」ことができます。私たちは、自分の召命(神にある運命)を見ることができるように創られました。私たちは、自分が見るものによって期待を抱くようになります。イエスが自分のために癒しを買い取ってくださったことを知ってはいても、癒された自分の姿が見えない人がいます。そういう人は自分の信仰を活性化することができないので、癒しを受け取れないのです。ただ癒しについて語り、癒されるのを期待するだけです。神が見ておられるように自分を見ていきましょう。神は、救われ、癒され、解放され、祝福された私たちを見ておられます。私たちが他の人々を祝福するのを見ておられます。私たちを打ち勝つ者として見ておられます。あなたは自分をどのように見ていますか?

宣言:私は癒されています。私は愛されています。私は繁栄しています。

今日の聖書通読箇所:朝・・・Tサムエル29-30章、Tコリント10章
              夜・・・エゼキエル8章、詩篇46−47篇
- 2006-09-03
header
header