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Osaka Shalom
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11月17日 赦しとは何か?

また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。(マルコ11:25)

 イエスは、もし私たちが誰かをまだ赦していないのなら、私たちがいくら祈っても、神が私たちの罪を赦してくださることはないと教えておられます。もし私たちの人生に罪があるなら、神は私たちの祈りを聞くことができないのです。神との関係を楽しめるようになるには、私たちは人を赦さなければならないのです。私たちにとって、神との関係が悪くなることほど辛いことはありません。もしそうなれば、私たちのすべての人間関係を壊してしまうからです。赦すことが私たちにとってそんなに必要なことであるなら、私たちは赦しとは何であるのかを正しく理解なければなりません。
 神は、私たちは心から人を赦さなければならないと教えておられます。マタイ18:35には、「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです」と書いてあります。私たちは、口先だけで、あるいは頭で、人を赦すことはできません。私たちが心から人を赦せるのは、ただ神の恵みによるのです。
 「赦す」とは、「自分を傷つけた人に対する憤りの感情を捨てる」ということです。「支払いを免除する」という意味もあります。イエスは、赦しを説明するのに「負い目」ということばを用いられました。イエスは、誰かが私たちに何かの負い目があることを望まれません。
 神が私たちを赦された時、神は私たちを罰することを敢えてなさいませんでした。私たちの罪に課される罰金はもうないのです。私たちには全く負債はありません。私たちが負うべき義務はただ1つ、神を愛し、お互いに愛し合うことだけです。神がされたように、私たちも人を赦す必要があります。自分にはとてもそんなことはできないと思うかもしれませんが、私たちが神の御性質を受け継いでいるということを理解できれば、私たちのうちに赦す力が働くようになります。私たちは、憎しみではなく愛をもって歩むことができるのです。
 「赦す」とは、「自分から進んで和解を求める」ことです。マタイ5:23〜24で、イエスは、「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」と語っておられます。
 私たちが覚えておかなければならないことが1つあります。それは、「赦す」とは、人が私たちに対して肉体的に、またことばの上で暴力をふるうのをそのままにさせておくことではない、ということです。もし私たちが自分でその状況を何とかできるのなら、どのようなことをしてでも、それを避けるようにすべきなのです。もし妻が夫に毎日叩かれているのなら、それはもう赦しの問題ではありません。そのような悪しき者からは、すみやかに逃げ去るべきです! 「赦す」とは、完全に忘れ去ることでもありません。神は私たちの罪を忘れてくださいますが、私たちは過去に自分を傷つけた人を記憶から消し去るべきではありません。なぜなら、私たちはもう一度その人を信頼できるようになる必要があるからです。人間関係とは信頼によって成り立つものです。信頼関係は一方通行ではないということも忘れてはなりません。赦したら、その後は賢く関係を築いていってください!

宣言:私の心は、私を傷つけたすべての人を赦しています。

今日の聖書通読箇所:朝・・・T歴代9−10章、ヘブル12章
              夜・・・アモス6章、ルカ1章39−80節
- 2006-11-15
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