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Osaka Shalom
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5月10日 神は夢や幻、なぞで語られる

仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。(民数12:6−8a)

 夢や幻、なぞで語ることは、神が語る時に用いられる基本的な方法です。「なぞで語る」とは、なぞめいたことを言う、難問を投げかけるという意味です。神が私たちになぞめいたことを言われるのは、御自分が語っておられることを理解するためにいろいろと調べることを私たちに求めておられるからです。神は様々な方法を用いて、私たちに語られます。
 啓示にも様々なタイプがあります。一般的なものとしては、思いや霊で何かの印象を受けることや何かを認知すること、心の目で見る穏やかな幻、霊の耳で聞く神のかすかな小さい御声などが挙げられます。
 これよりもレベルが高いものとしては、実際に幻を見ること、御使いや主の訪れを受けること、鮮明な夢を見ること、恍惚状態に陥ること、霊において引き上げられることなどや、他の預言的な経験などがあります。これらはハイレベルのタイプで、明確な啓示が伴います。
 神は、私たちが思いや霊において何かの印象を受けたり、何かを認知することによって神が語っておられることを理解してほしいと願っておられます。時おり私たちは何か目を見張るようなものを期待しすぎて、超自然的なものを見過ごしてしまいます。超自然的なものの多くは、私たちがそれと気づかないうちに起こっているのです。すべての信者が神からの印象を受け取っているのにものかかわらず、それを何か脱線した思いであるとか、偶然の一致だなどと思ってしまうのです。
 私たちは絶えず何かを考えているわけですが、時おり、自分の考えていることに驚くことがあります。例えば、ある人のことを思い巡らしていたら、思いがけずその人に出くわしたり、突然その人から電話がかかってくるというようなことがあるのです。そのような時には「私、ちょうど今、あなたのことを考えていたんです!」などと言いますが、では、なぜ考えていたのでしょうか?その人についてどんなこと考えていたのでしょうか?そのような時にこそ、聖霊に尋ねる必要があるのです。
 使徒14:9で、パウロはある男性にいやされる信仰があることに気づきました。そこで彼が祈ると、その足なえの男性は歩き出しました。パウロは実際何かの声を聞いたのでも、幻を見たのでもありません。ひとつの印象を受けたのです。その後の章では、パウロは自分たちの航海が災難に見舞われることに気づいています(使徒27:10)。そして、彼がこの受けた印象についてさらに神に尋ね求めた結果、自分たちが何をすべきかがわかってきたのです。
 神は私たちの心ばかりでなく、からだにも印象を与えられます。私たちがいやしのミニストリーをしている時に、神は時おり、その人々が持っている痛みを私たちに感じさせてくださいます。祈り始めると、突然からだのどこかに痛みを感じるのです。そして、神がどこをいやそうとしておられるのかを彼らに向かって語り、いやしの祈りをすると、私たちが感じていた痛みは消えてしまうのです。
 神は私たちの感情に何かの印象を与えることもなさいます。私たちは時おり、他の人々が感じているのと同じことを感じることがあるのです。誰かと話していると、突然、恐れや悲しみを感じることがあります。突然、その人を危険から守らなければならないと感じることもあります。その人の生活の中に汚れを感じることもあります。私たちがこのようなことを感じるのは、彼らを助けるためです。また、私たちが町々で神の救いのわざが起きるように祈ると、その地域を支配している霊を感じることがよくあります。しかしながら、神が主に用いられるのは、私たちのからだや感情ではなく思いに印象を与える方法です。からだや感情に印象を受けても、そのままで終わらせてしまうことが多いからです。私たちは神の御ことばを私たちのうちに豊かに住まわせ、心にある思いや感情を判別できるようにならなければなりません(ヘブル4:12)。

宣言:私は自分が抱く思いや感情を識別していくようにします。日々、御霊のうちを歩みます!

今日の聖書通読箇所:朝・・・民数19章、詩篇56−57篇
              夜・・・イザヤ8章−9章7節、ヤコブ2章
 
- 2006-05-07
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