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6月29日 宗教の霊に打ち勝つ方法―ステップ3

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12:2)

 宗教の霊の問題点は、私たちをキリスト中心ではなく、自己中心にさせてしまうことです。宗教の霊によって、私たちは自分自身の行ないや能力に目が行ってしまうようになります。しかし聖霊は、私たちが信仰の創始者であり、完成者であるキリストを見続けることを願っておられます。
 宗教の霊の罠に陥ることなく自由でいるには、イエスが私たちを愛してくださり、その愛を十字架で証明してくださったことをいつも心に刻みつけておくことが必要です。イエスは、私が受け入れられるのにふさわしくなるまで待つことなどなさいませんでした。イエスは、私が御名を呼んだ時すぐに私を受け入れてくださったのです。
 私たちは自分を変えてからイエスの御前に行くのではありません。御前に行く時、変えられていくのです。イエスを見続けると、私たちはイエスの似姿に変えられていきます。私たちがイエスを礼拝し、御臨在の中ですべてを従わせる時、イエスが私たちの信仰を成長させてくださるのです。
 自分や人に目が行くと、私たちは必ず失敗します。私たちに必要なのは、イエスに私たちの模範となっていただき、私たちが信仰生活を全うできるように導いていただくことなのです。イエスは、私たちにとってすべてとなりたいと願っておられます。イエスは、私たちが十字架の恵みのすべてを受け取ることを願っておられます。あなたは自分の十字架を負う必要がありません。イエスが私たちに負うように期待しておられるのは、イエスが負われた十字架です。イエスの十字架は、私たちの罪や肉、病気、そしてこの世までも処分してくれたのです。私たちがこれらの事々に打ち勝とうとして苦しまなくてもいいように、イエスが苦しんでくださったのです。私たちは、ただこの十字架の恩恵に与かるだけでいいのです。私たちはイエスの苦しみ(によってもたらされたもの)に与かるように召されているのです(ピリピ3:10)。つまり、私たちはイエスが支払ってくださったものをすべて受け取る必要があるということです。私たちはすでにキリストとともに死んでいます(ローマ6:5−11)。もう今はイエスは苦しんでおられません。神の御座の右に座しておられ、礼拝と誉れを受けておられるのです。イエスは今、天を治めておられます。そして、御自分の教会を通してこの地を治めることを願っておられるのです。
 私たちは、イエスの血潮によって、赦し、癒し、解放、恵み、憐れみをいただいています。キリストによって、それらはすべて私たちのものです。ですから、罪を犯したら、赦してくださるイエスのところへ行く必要があります。病気になったら、癒しを受け取るためにイエスのところへ行く必要があります。助けが必要なときは、恵みを受け取るためにイエスのところへ行くべきです。私たちは、自分の十字架ではなく、キリストの十字架を誇りとしなければなりません。
 キリストの血潮によってのみ、私たちは神の御前へ行くことができます。私たちが神の御臨在に入っていくのに、良い一日だったか、それともひどい一日だったか、またいかに卒なく宗教的な‘すべきこと’をすべてやり遂げたかなどは全く関係がありません。私たちが神に受け入れられ、御臨在へ入っていけるのは、ただ一つのこと―イエスが私たちが義と認められるために払ってくださった犠牲―によるのです。イエスの血潮によって私たちはすでに神と和解したので、いつでも神に受け入れられ、御前に出ることが許されているのです。イエスの血潮を神に感謝します!

宣言:父なる神様、イエス様によって私があなたの子どもとなり、あなたに受け入れられていることを感謝します。私はキリストによって受け入れられ、義と認められています。
 
今日の聖書通読箇所:朝・・・ヨシュア1章、詩篇120−122篇
              夜・・・イザヤ61章、マタイ9章
- 2006-06-28
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