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Osaka Shalom
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6月22日 神の愛は無条件です!

「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」(ルカ15:32)

 この放蕩息子のたとえ話は、私たちに対する神の恵みを教えています。弟が自分の財産を持って出て行き、それを湯水のように使っていた一方で、兄は自分の財産を使うこともせずに父親に仕え続けていました。この弟息子は放蕩生活を送っていましたが、ある時我に返り、父親のもとへ戻る決心をしました。彼が恥入った態度で父親のところへ戻ると、父親は彼に駆け寄り、口づけをしました。そして、その放蕩息子に一番良い着物や指輪、くつを与えたのです。その後、ごちそう、音楽、踊りなどが盛りだくさんの大祝宴が開かれました。
 神は恵み深く、愛に満ちた御方です。私たちが神に立ち返るなら、神はすべての罪を赦し、忘れてくださいます。このことを理解するのが難しいのはどのような人でしょうか?宗教的な人です。兄息子は自分の弟が父の家に戻ってきたことを快く思いませんでした。それどころか、父親に腹を立てていました。この兄息子はなぜ腹を立てていたのでしょうか?それがわかると、なぜ他のクリスチャンが祝福を受けると腹を立てるクリスチャンがいるのかがわかるようになります。
1.兄息子はひたすら父に仕えていました(ルカ15:29)。彼は、ただひたすら父親のために働いているだけで、自分が父親と良い関係を築くことができるなど考えも及ばなかったのです。宗教的な人は‘神のために働くべきだ’という考え方を持っています。父なる神が私たちとともに働いてくださるのでなければ、そのような考え方で生きていると、何もかも嫌になってくるのです。
2.兄息子はいつも従順でした(ルカ15:29)。彼は父の家の戒めにはすべて従っていました。心の中で自分に欠けるところはないと自負していたのです。彼は自分が良い生活を送っていると思っていました。宗教的な人はいつも完全主義者的な考え方をします。自分がすべての戒めや規則に従い、周りの人が皆、それを知ってくれていたら、それで満足なのです。その人にとって大切なのは従うべき戒めや規則であって、父なる神とともに何かを行なうことではないのです。しかし、神は私たちのうちで、また私たちを通して働きたいと願っておられます。私たちがすべての戒めや規則に従おうと努力することではなく、うちにおられる神の御霊にすべてを委ねて従うことによって、それは可能なのです。
3.兄息子は一度も友達や父親と宴会を開いたことがありませんでした(ルカ15:29−30)。宗教的な人は一度も楽しんだことがありません。絶えず働きまわっています。一つの仕事を終えたら、次の仕事のことを考えるのです。私たちが最初に守るべき戒めは、神を愛することです。それはつまり、神を喜び楽しむということです。宴会は断食よりもずっと楽しいものです。
4.兄息子は、弟が父に赦されて受け入れられ、親子関係が回復したことに腹を立てました(ルカ15:30)。宗教的な人は、物事を正しく行なえていない人が祝福されるのに我慢できません。‘すべきこと’や‘すべきでないこと’のリストで頭がいっぱいになっているからです。私たちが失敗しても父なる神のところへ戻れば、神は必ず祝福してくださるというのが良い知らせなのです。キリストの血潮によって洗いきよめられたところには、神の愛が絶えず注がれています。悔い改めは、愛に満ちた天の父との関係に回復をもたらします。

宣言:父なる神様、すべてはあなたの恵みによるということを私は理解しています。お父様、一緒に宴会を開きましょう!

今日の聖書通読箇所:朝・・・申命記27章−28章19節、詩篇119篇1−24節
              夜・・・イザヤ54章、マタイ2章
- 2006-06-20
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