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Osaka Shalom
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6月21日 宗教の霊は霊的枯渇をもたらす

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」(マタイ23:37−39)

 宗教の霊に導かれていくと、最終的にどうなるのでしょうか?枯渇し、荒廃します。神の臨在も御声も私たちの生活から消え去ります。私たちのクリスチャン生活が実を結ばなくなってしまいます。
 イエスはどのように宗教の霊に対処されるのでしょうか?まず、宗教の霊に縛られている人々を愛し、抱きしめられます。イエスは、御自分の臨在や御声に敵対する人々を変わることなく愛しておられます。イエスは彼らのところに行って、介抱したいと願っておられます。私たちは喜んで神の臨在や御声を受け入れなければなりません。神は私たちをコントロールなさいません。ですから、安心して神の臨在や御声を求めるべきなのです。エルサレムはイエスが王として来られることを認めませんでした。人々は自分の宗教的な行ないを続けていたかったのです。
 エルサレムは、後にローマ帝国が破壊して荒廃をもたらす前に、すでに霊的に荒廃していました。私たちがキリストにとどまり、キリストが私たちにとどまる時にのみ、私たちは実を結ぶことができます。エルサレムに神が来られたのに、人々はその神を殺してしまいました。癒しと解放をもたらした方を殺してしまったのです。非常に長い間自分たちが待ち続けていた方を殺してしまったのです。イエスは、人々が当然こうあるべきと考えていた方法では来られませんでした。彼らは自分の考えに適合する神を求めていました。自分たちのような神を求めていたのです。神を箱の中に入れようとしたのです。
 イエスは、御自分を慕い求め、御自分を必要としているところでしか御臨在を現わされません。イエスは、「祝福あれ。主の名によって来られる方に」と彼らが言う時まで、彼らが御自分を見ることはないであろうと言われました。私たちが感謝と賛美、礼拝によってイエスを心から歓迎するまでは、私たちの生活の中で、神の臨在と栄光の現われを見ることはありません。私たちは、自分の生活のただ中に主が来てくださり、その臨在を現わしてくださるように求めなければなりません。主がさらにもっと自分を満たしてくださるように求めなければなりません。
 あなたは神の臨在に渇いていますか?宗教的な行ないに疲れ果てていませんか?実を結ばない生き方にうんざりしていませんか?もしそうなら、あなたには見込みがあります。あなたは宗教が自分を満足させることは決してないと気づいているのですから。神の御臨在だけがあなたを満足させることができるのです。では、どうやってこの御臨在に触れることができるのでしょうか?神の御こころを喜んで受け取っていくのです。イエスを賛美し、礼拝するのです。イエスが必要だと申し上げるのです。今日イエスが必要だと言ってください。イエスはあなたのすべてになりたいと願っておられます。

宣言:キリストは私のうちに住んでおられます。私のうちにおられるイエス様の御臨在に私のすべてを従わせます。

今日の聖書通読箇所:朝・・・申命記26章、詩篇117−118篇
              夜・・・イザヤ53章、マタイ1章
- 2006-06-14
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