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Osaka Shalom
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6月19日 些細なことにこだわってはいけません

忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。(マタイ23:23−24)

宗教の霊は、私たちが、愛や誠実さといった心の態度よりも、物事を行なう形にばかりこだわるように仕向けてきます。パリサイ人は、香辛料も含めてすべての什一献金を捧げていました。彼らは自分がすべてを正しく行なっていると自負していましたが、愛や思いやりといった人生で重要なことをないがしろにしていたのです。
 時おり、私たちはそんなに重要でないことに追われて、忙しくしていることがあります。生活の中の些細なことに几帳面になりすぎるのです。教会生活の中には、宗教的な人々が好ましく思わない事々があります。何回聖餐式を持つべきなのか?礼拝ではどのような楽器が許されているのか?教会で踊るべきなのか?説教者は皆、ネクタイを着用すべきなのか?クリスチャンがワインを飲んでもいいのか?日曜礼拝は何時間すべきなのか?教会でやかましい音楽を用いてもいいのか?煙草を吸う人はクリスチャンといえるのか?
 このような質問はもっとたくさんありますが、どれもあまり重要でない問題です。このようなことで、教会や他のクリスチャンに腹を立てるべきではありません。聖書にはっきり書かれていない事がらに関しては、たとえあまり良くないと思えても、愛をもって対処すべきです。私たちは神を愛し、人を愛し続けるべきです。人を批判するのではなく、祝福し続けるべきです。
 神が教会に礼典を守るように命じられたこと自体は、すばらしいことです。洗礼式も聖餐式も教会が執り行うべきすばらしい礼典です。しかし、私たちが主やお互いに対する愛の心をもってこの礼典を執り行わないのなら、それがとても宗教的になる可能性があります。什一献金でさえ、義務感から捧げることもあり得うるのです。私たちは、私たちを祝福してくださった神に心から感謝して、什一献金を捧げるべきです。私たちは、自分の経済を祝福してくださるのは神であると知っているので、什一献金を捧げるのです。
 私たちは、些細な事にこだわり、教会や他の人々に腹を立ててしまうことがないようにしなければなりません。たとえ自分を苛立たせるようなことがあっても、愛のうちを歩むように心がけなければなりません。自分がどれほどイエスを苛立たせるような行ないをしてきたかを考えてみてください。感謝なことに、イエスが私たちの行ないで苛立つことなどあり得ません。私たちが失敗した時でさえ、イエスは変わらずに私たちを愛してくださいます。イエスは決して私たちを責めません。イエスはいつも私たちを信じ、私たちのために祈っておられます。
 今、あなたを苛立たせているものが何かありますか?それを主に委ね、赦すことを学び、あなたを苛立たせている人を愛してください。裁いても、腹を立ててもいけません。愛と平安のうちを歩んでください。裁きは神に委ねましょう!

宣言:私はいつも愛のうちを歩むことを選び取ります。自分の苛立つ心を今、主に委ねます。

今日の聖書通読箇所:朝・・・申命記24章、詩篇114−115篇
              夜・・・イザヤ51章、黙示21章
- 2006-06-14
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