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Osaka Shalom
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6月17日 宗教の霊は御霊の動きを止めてしまう

しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。(マタイ23:13)

 宗教の霊は、教会の中の神の御霊の動きを止めてしまいます。個人の生活においても同じように働きます。この聖句でイエスが非難している人々は、宗教的な指導者でした。その時代の‘牧師’とも言える人々です。なぜイエスはこの人々に対して怒っていたのでしょうか?彼らが、人々の生活の中で神が働かれるのを認めようとしなかったからです。彼らは神の臨在が教会に訪れ、礼拝や彼らの‘教会員たち’を導くことを許そうとしなかったのです。彼らは神をほめたたえ、神を礼拝し、聖書を教え、什一献金もしていました!彼らは正しいと思われることはすべて行なっていました。しかし、それは義務感からでした。彼らは神の臨在に触れるために教会に来ていたのではありませんでした。神が会衆に何を語っておられるのかを聞きに集まっていたのではありませんでした。彼らはお互いに会うために集まっていたのであって、神に会うためではなかったのです。
 教会は御自分を現わすために存在すると神は思っておられます。あなたはそのことを知っていましたか?御自分のために教会が作られたと神は思っておられるのです!イエスは「わたしはわたしの教会を建てます」と言われました(マタイ16:18)。教会は誰のものですか?イエスのものです。教会とは、イエスが来られて私たちに話しかけてくださり、御自分の臨在を現わしてくださる所です。イエスは「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と語られました(マタイ18:20)。イエスは、私たちが宗教ではなく生きた関係を持つことを願っておられます。1コリント12-14章では、私たちが集まる時に、神の御霊の現われがあると教えられています。どのような現われがあるのでしょうか?愛が現われ、異言や預言が語られ、霊の見分けや癒し、奇跡などが起こるのです。もし礼拝中にこれらのことが起こっているなら、キリストの御霊がそこで働いておられるということです。では、もしこの御霊の現われが全くないとしたら、それはどういうことなのでしょうか?宗教の霊が、神がその礼拝の中で行ないたいと願っておられることを止めてしまっているのではないでしょうか。教会のリーダーや教会員ではなくイエスこそが教会の頭なのです!
 宗教の霊は、あなたが御霊の流れの中で導かれて何かをすることがないように、あなたをコントロールしてきます。宗教の霊に導かれているリーダーは預言を嫌います。会衆をコントロールできなくなるからです。そのような教会のリーダーよりもイエスの方が上手に会衆を導かれることでしょう。イエスが神の御力によって御わざをなしておられたので、宗教的な指導者たちはイエスを憎んでいました。イエスは御霊の御声を聞いていました。イエスは、たとえ弟子たちの性格に多くの問題があっても、全員が奇跡のわざをするように導かれました。宗教的な指導者たちが人々に日常生活で果たすべき義務について教えていた時に、イエスは神について教えていました。もし主の臨在がないなら、私たちが日常生活の中で行なうすべてのことは、無味乾燥なものになるでしょう。
 あなたは預言していますか?人々を癒していますか?自分の教会で神の臨在を経験していますか?もしそうでないなら、なぜなのでしょうか?

宣言:主よ、私はあなたの王国について知りたいです。あなたの御力と愛を知りたいです。

今日の聖書通読箇所:朝・・・申命記22章、詩篇110−111篇
              夜・・・イザヤ49章、黙示19章
- 2006-06-14
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