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Osaka Shalom
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8月11日 イエスは十分の一を捧げることを忘れてはいけないと言われた

忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。(マタイ23:23)

 イエスは弟子たちが十分の一を納めることを望んでおられました。しかも正しい動機で捧げることを望んでおられました。イエスはここで、十分の一を捧げることは好ましいことではないと言っておられるのではありません。
 私たちはもう律法の下にはいないので、十分の一を捧げる必要はないと考えている人もいます。もっとものように聞こえますが、それは聖書的ではありません。十分の一を捧げることは、律法が定められた時より430年も前から行なわれていました(創世記14:20、28:22、ヘブル7:1−11)。
 アブラハムが王であり祭司であったメルキゼデクに十分の一を捧げた記録が、その一番初めのものです。ヘブル書によると、イエスは永遠にメルキゼデクの位に等しい祭司です(ヘブル7:12−22)。イエスはアロンの血筋をひいていたので祭司になったわけではありません。イエスは、メルキゼデクの正統な流れを汲む大祭司なのです。
 私たちは今、律法で定められたアロンの祭司の務めの下には置かれていません。しかし、キリストによって新しい契約に与かる私たちは、メルキゼデクの霊的な流れの中に置かれています。ですから、イスラエルの民が古い契約に基づいて祭司に捧げものをしたように、私たちも新しい契約に基づいて祭司の務めに捧げるべきなのです。では、次の質問は、何のために什一献金を捧げるのか、それは何に用いられるのか、です。
 十分の一の捧げものは、レビ人、つまり旧約時代の神の集会(教会)の霊的指導者のために行われていました。レビ人は労働することが許されていませんでしたから、霊的指導者として祭司の務めを行なう彼らのために、その宮での奉仕の報酬として十分の一を捧げるように、神は民に命じられたのです。
 民によって捧げられた十分の一の十分の一は、大祭司に捧げられることになっていました(民数記18:25−28)。これは、レビ人が神の祝福を経験し続けるための方法でした。このように、祭司たちも自分の指導者に十分の一を捧げていたのです。神は、古い契約に生きるイスラエルの民のために、ひとつの経済制度を設けられました。これから学んでいきますが、これは新しい契約においても継続されているのです。
 十分の一を捧げることは、神の宮と神が選ばれた指導者たちの必要を満たし、彼らが100%神の働きに従事することができるように神が定められた方法でした。これによって、彼らは神の民に霊的な食べ物を供給することができたのです。神に選ばれた指導者たちがこの世の仕事をしながら神の民を教え導く働きをすることは、初めから神の意図するところではありませんでした。神は、御自分が選んだ霊的指導者たちが、何にも妨げられることなく御ことばを教え、祈り、とりなすことができるように、その働きの報酬を得ることを願っておられます。もし私たちが神のこの願いに応えるなら、神が私たちの面倒を見てくださると約束しておられます。あなたが地の果てにまで福音を宣べ伝える働きのために捧げるなら、神はあなたの必要を満たしてくださいます。神の働きを祝福する時、あなたは祝福されます。

宣言:什一献金は神の御こころです。神の選ばれた指導者が宣教ととりなしの働きができるように、私は十分の一を捧げます。私は、この地上における神の働きをサポートします。

今日の聖書通読箇所:朝・・・Tサムエル1章、ローマ1章
              夜・・・エレミヤ39章、詩篇13−14篇
- 2006-08-10
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